昭和40年11月10日 朝の御理解



 「真を持って成就せん事なし」と、「真を持って成就せん事なし」と、「成就せん時には、氏子の真が欠けたと悟れ」と、ね、真を持って成就せん事がない、もし成就せんような時には、「氏子の真、私共自身の、真が欠けておると悟らせて頂け」と。今朝御神前に、進ませて頂いてから、一番に頂きますこっ、頂いた、ことですけれども、まあどこも、鎧戸」というのがしてございますねこう、ああいう。
 最近あの、商社の前に、銀行なんかももうあれですね昔から、商店の上にしてもあれをこの頃使うようになりましたですね、あの「鎧戸」がこのくらいばっかしふたが上がってる、それからきゃ、あの開かってないというような感じで頂くんですね。「はぁこれから先を開けるのは、まあそこまでとても人間の力では、開けることは出来ないだろうけれども、それを今までこう、出入りが出来るところまで、開けるためには、人間の力では開けられんもんだ」と、まあそういう風に私感じたです。
 そしたらね「一心の真」ということを頂いた、ね。いわゆるその例えば四神様のお言葉でございますように「真で成就せん事ない」「真で開かん事はない」と、それも「一心ぞ」と、そこで先ず私はその「一心」ということです、お互いの例えば一つの願い事に、致しましても果して一心かと、ね、思うてみるとなるほど一心じゃないことに気が着きます「一心とは迷いのないことぞ」と教祖は教えておられます、ね。
 「一心とは迷いのないこと」、ね、「此方一心と定めい」とも仰る、此方一心と定めておらねばならんのに、此方だけではなくて、ね、もうあれに頼りこれに頼り、ね、神様はそんなこと金光様だけかもしれんけれども、自分の心縮み砕けておる、それではやはりまとまりませんですね、一心じゃないです、「一心とは迷いのないことである」、そんなら「真」とは?「これぞ真」というのが難しい、難しいようで、たいして難しいことではない(笑)というような気がするけども、なかなか難しい。
 「尽くしても、また尽くしても尽くしても、尽くし足らぬが真なりけり」というような、共感ですね、真というのはです、尽くしても尽くしても、足りん、その、そういう心、いわゆる教祖の神様のお言葉を持ってするなら、「これですんだとは思いません」ということだと私は思う、どれだけの事が出けたからと言うて、それで良いということはない、「尽くしても尽くしても、尽くし足りないのが真である」と。
 「それなら私共は「真」というものを何時になったら成就することが出来るか?」「それじゃったらまあ結局おかげが受けられんという事になるじゃないか」と、ということにもなるですね、「真で成就せぬことない」「うんならもう成就せぬ事なんだ」と、ね、真で成就せぬことがない、ね。もし成就せぬ時には、「氏子が真がかっ、欠けたと悟れ」とこう、してみるともう、私共の願いというものは成就しないのだと。
 人間がどれだけ尽くしても尽くしても、真というものは是で良いと言うのじゃないのだから、私そういう風に頂きますと、なるほど真というのは難しい、難しいと本当に至難な事である出来ない事である、その出来ない事が出来なければ、成就せんという、事でもないのです、問題はその真というものをです、本気になって追求することだとこう思う。昨夜の御理解の中に。先日日曜のでしたか柿狩りに、長瀬さんのところからお招待を頂いておって、なかなか、お迎えの車を頂いたけれども。
 その、お取り次ぎをさせて頂いておりますもんですから、行けんのです、ですから丁度その時にあの、熊本やら下関あたりから、お参りして来とった人達がありましたから、「あなた方も、一遍ここ辺の一遍柿山を見に行きなさい。折角車が迎えに来とるから、久保山先生あなたが、まあ連れて一緒行って下さい」と「私あと、後の車で行くから」と、と言うて先にやりまして、その後にまたあの熊本から参ってきました。
 ですからまだあそのう、丁度お話しをしておる時でございましたから、「あんたも(どうぞと言うたのがこの  ?  )」高瀬さん、高瀬ひろ子さんなんですまだ、去年高校出たばかりですから、19歳でしょうかね、もう本当にまあ興味ですね。たまがってしまいます事は、神様が色々と教えられるんです此方に、ですからあちらから参ってくる人はみんな、ひろ子さんのことを「高瀬先生、高瀬先生」て言うておるです。
 確かにそういうですね、まあ一つの霊徳を受けられるような雰囲気を持っとるですこの人は、ね、もうそして、このひろ子さんのところで、色々お参りをさして頂いてから、御理解を頂いておりますともう、夜中の二時まででも三時まででもです、もう限無しのお話しを頂くと、もう立とうと思いよっても立たれんって言って、参ってくる人がみんなそう言いますあちらから、ね。
 その方ですまあ一緒に、丁度その時間にまいりましたから一緒に私が、同乗して参りました、それで(秋永 ? )先生と秋永先生があの現場に下りて、色々打ち合わせがあるというので、またあそこで一時間ばっかり待ちました、そして一時間ばかり待っとる間、私ひろ子さんと二人でっとこう、あの現場を見て回らせて頂いたんですけれども、丁度私が、私の部屋になっております。
 一番南のはしの部屋の前に来た時にです、「これがあの、私の部屋になることになっておる」であの、私はここんところの、南の東側の壁のところに、あの、「芭蕉の木を植えたい」と、この辺には芭蕉がないから、ここは、建築、その、( ? )の( ? )だから、井上さんに、まあ社長に言うてから、ここに芭蕉の木を持ってきて、熊本があれは多いですもんね、
 ですから、「ここに植えたいと思う」と私が、その何気なしに話しておったんです、そしたら昨日また、熊本から、4・5人を連れて参ってみえた、方達が、御理解を頂いた後ですもん、そちらで、色々話よりましたらあの。「先生、高瀬先生から、あの、おことづけがあっとりました」っち、「先生があの、お庭に芭蕉の木を植えになるということを聞いてから、どうでもそのお供えさせて頂きたいと思うから、ね、
 何尺何斤ぐらいの高さの、芭蕉の木であったらよろしいございましょうかお伺いしてきてくれということでございました」とこう言う、ね、私はです、思うにはですね、真とはそういうようなものだと思うですね、自分に出けないということじゃないでしょうが、ね。私共はね、出来ない事を難しく難しく、することが信心であるように思うたり、真であるように思うたりするところに難しさがあるのです、ね、
 「自分でしよう」と、「はぁ先生が、あそこに芭蕉の木がほしいと仰った、そのくらいな事なら私でも出来る、早速誰彼がお供えするなら先ず私がです、ならあそこに植えさせて頂く格好の、芭蕉の木を探させて頂こう」と「何斤ぐらいの芭蕉の木、が良いか聞いてきてくれ」とこういう、ね。来る事は、自分で出来る事は、自分の周囲に山ほどある、沢山ある、それを疎かにしておいて、出けない事ばかりを考えておるというような事では、何時までたっても、真は成就しない、ね、
 自分で出来る事、ね、いわゆる真心を持って、思わせて頂いた事をです、しかもそれが自分に出来る事、出来ん事じゃない、自分に出来る事をです、私は実行していくことだと思う、出来ません事を、ね。いくら願ったところで、すがったところで、そして出来もせん相すいませんではいけん、出来る事を成していくこと、ね、私共、私共としてはです、私共の考え方としては、教祖の神様のそういうお言葉のように、
 「これですんだとは思いません」と、どのような事が出けたからというて「これですんだとは思いません」と、「尽くしても尽くしても、また尽くしても、足りんのが真である」ということ、しかも一心であること、迷いがないということ、ね。難しい事じゃないですねぇ。「真で成就せぬ事はない、成就せぬ時には、氏子の真が欠けてると悟れ」と、そういう真が、私共に欠けておるのではないでしょうか、出来る事を(まわざり?)にしておる、ね、そして一心じゃない、もういよいよいけません、ね。
 だんだん、信心をさして頂いておりますと、信心が見かけばっかりやって参ります、色んなことが分かってまいります、「金光様の信心はこういう信心だ」と言った様な、もう説明でもさせると、本当に先生の様な事を言える様になります、言える様になっておるから本当におかげを受け取るかというとおかげを受け取りません、おかげを受けてからのこと、いかに詳しゅうなったっておかげにはなりません、ね。
 人見せの信心じゃいけません、見掛けが良い信心じゃいけません、「どっから見ても金光様の御信者じゃ」というタイプの人があります、けれども、おかげは受けておりません、いわゆる「一心」というものを追求しません、いわゆる「真」というものを早速行の上に現していきません、ね。そんな事を私、今日の御理解をいただ、頂いてから思わせて頂きよりましたら、こう、おながどりというのがありますね。
 あれは天然記念物になってるです、ニワトリも一緒です、高いとことまって尾がざぁとこう、ね、いわゆる人に見せるだけのためのニワトリですこれは、ね。そすとあと片一方の方にはです、いわゆる普通のニワトリが、一生懸命こう、(ごまござ?)ごったっとん中を、あさってから、餌を探しおる、状況を頂くんです、それで、そげなん事を私は申しております、信心が段々後者になりますと、ね、
 見かけだおしの信心になります、見かけばっかりになります、役の一つもさして頂くようになると、もう信心が出けたごと思います、信心が出けんから役でも付けちゃるとじゃん、という自覚が要るです。「はぁ自分に信心が出けんもんだから、自分が本当な事が分からんのだから、自分が本当の御用も出けんもんだから、神様の御用なっとに使うて本当の事を分からせようとしておられるんだ」という風に、若いのはいけんのだけれども、役が、役をして頂いたら、もう自分がなんか呼付けとうかのように思う、ね、。
 私共が本当の信心をさして頂くと言う事はです、私共の周辺にあるところに、様々な問題の中に、ね、昨日の朝の御理解ではないですけれども、「朝日を拝む者は多いけれども、夕日に手を合わせる氏子が少ない」と、ね。昨日はそんな御理解を、朝頂いておりましたですね、そしたら夕べ、久富さんのところの、長男の邦夫さんが参ってみえまして、親子連れで、そしてからそれと反対な事を頂いてるんです。
 「久富の人間の者は、夕日を拝むけれども朝日は拝まん」と仰る。「これが家の、家の、言わば、まあ言うなら欠点じゃ」っち言って下さった、そういう中にお知らせ頂いたっち(笑)、そんな人がありますよね、普通は朝日を拝むけども夕日に手を合わせない、ところがヒサドミさん一家の場合は反対たい、夕日は拝むけれども、ね。朝日の方がまっ、この中から、邦夫さんも。
 「本当にあんたへの言わば、本気で立ち上がらなければならんと言うか、発心せなければならんと言うか、そういうようなものを感じるね」って、「今朝の御理解が実はこんな御理解だって、その反対だったよ」と言うてから、話した事でした、ね、大体において、いわゆる自分の思うようになる事はおかげと思うけれども、自分の思うようにならないと「これだけ信心するのに」というような、拝む気はしない、かえって不足を言うておる、なるほど、これはやはり前程ですからね、非が生えるということは、ね。
 いわゆる一つ、「こう言う様な事」と言う様な中にです、いわゆるそれこそ、腹にかかるような中にでもです、あせれば結構その中には餌があるという事、ね、そして、生まれてくるものは、やはり、日々、新鮮な卵を産み出す事が出来るということ、ね、新鮮な卵を産んでいくから、ニワトリを、を、人間が大事にするように、私共がこういうような中、こういうの中、ね。
 昨夜私お食事の時に、れいによって、その、お、お茶粥、さんですから、昨日はもう、お、コブの出し柄の佃煮だった、お白湯が、ばってん皆なおかゆさんじゃった、もうそれがもう、有り難うして、美味しゅうしてたまらん、私四杯半も食べて、皆が笑うんですよ「大丈夫ですかそんなに頂いて」って、ね。本当に美味しいんです、本当に有り難いんです、ね、何ぼ頂いても美味しいんです。
 「ほんなこつならもう一杯おかげ頂きたかばってんね」と言うてから、笑った事でしたけれど、ね、丁度前に久富先生が座っておられましたから、久富先生に話した事でした、ね。まあ言うならばです、私共の、言うなら生活、食生活の上においては、まあ最低な言うなら食べ物だろうと、麦のおかゆさんにコブの出し柄、食堂あたりでは、コブの出し柄はもう捨ててしまいますよね。
 それを佃煮にしてある、それが美味しゅうて有り難うしてたまらん、ね、こういう、言わばこういうようなものの中にでも、こげしこ喜ぶなら、神様がおかげ頂かせなさらんはずはなかろうと私は思うて言うたことでした。「何かまちっと品はなかったか?」と、「こげなんまぁ(ふつり?)ごたるもんばっかり食べさせちから」と、っち、そういう中にはおかげはないです。
 昨夜の私の、お食事を頂か頂いておる中に、私が喜んでおるそれは、もうすでに卵が産まれておる、ね、こういうような中に、よくよく分からして頂いたら、卵産ませて頂くところの良さがその中にあるということ、だから神様に大事にされるはずなんだ。ニワトリがどんどん、産みよるとばなかなか潰しゃあせんでしょうが、「この頃あのいっちょん卵産まんごとなった」。
 「これはもう油んまわっとるじゃろう」「もう今度殺すならこれば殺すばよかばい」っちいうごらる風に言うでしょうが、同しこと、人間でも信心でも同じこと、ね、「もう今度潰すにはこれがよかばい」っち言われるごつなったらどうします、ね、そん時だけ(いくら ? )のごたっちゃだからおかげは頂かれんっちいうこと、ね。昨日の朝の御理解の中にもありますように、ね、
 「そんなら喜ぼう」と言うて喜べるもんじゃないということ、ね、神様に喜んで頂けれるような信心をさして頂かなければです、ね、神様から喜びは許されんということ、ね、昨日の朝の御理解がそうだったでしょう、ね、どげん(  ?  )さして頂いても、はしをつけただけで、食べるごとなか、(  ?  )がムっとした、いかにその人が、神様に喜んで頂けるような生活をしていないかということが分かる、ね。
 どういうまずい物の中にでも、有り難うして応えん、美味しゅうした応えんという人がです、神様に喜んで頂けるような、働きをしておる証拠なんです、だから「美味しい」ということを許されるんです、どげなん中にでも喜び、喜びを感じれれる生活こそが、信心の生活であり、また、それを神様は願うておられるのである、ね。(百万食 ? )の中にあっても、それを、おごちそうと思わなければ食べられもしないならば、それはもう地獄と同じ事、先ず自分の心の中に、極楽を開かなければいけん、ね、
 それにはです、本当に神様に喜んで頂くという信心、なら神様に喜んで頂くという信心とはどういう信心か、と、練らせて頂かなければならない、一番手っ取り早い話しが、「親先生が喜んで下さる信心」ね、それは、親先生、その人がです、神様に通うておるならば、それはもう神様が喜んで下さったと同じ事。昨日の、熊本の、ひろしさんの話しではないですけれども。
 私は、この人の、言わば芭蕉の木を、求めたわけでも何でもなかったけれども、「ここに植えたいと思う」っね、それを翌日翌々日には、早速信者さんをもって、「大体何尺ぐらいな、どのくらいの高さの芭蕉がいいでしょうか?お伺いしてきてくれ」っと、私の心の中にパーっと飛び込んでくる。しかもそれはあの、至難のことではないと、熊本では名物と言うほどに、その芭蕉の木がどこにも、密生しておる。
 出来ない事をすることが先生が喜ばれる事じゃない、やろうと思えば今でも出来る、しようと思えばすぐ出来るようなことをです、私共の周囲に疎かにしておるようなことでは、いつまで経っても神様に喜んで頂くということは出来ん、また、神様から喜びを許される事も勿論ないでしょう、ね。今朝から私その、オナガ鳥と、そのニワトリのお知らせを頂いてからそんな風なことを感じた、ね、
 私共が喜びがつらないほど痛い事は痛い、苦しい事は苦しい、けれどもその中にです、どういう御神意があるのじゃろうかと、分からせて頂くために、あせっていきよって「はぁあ神様がこの事を分からせて下さることのためだった」ということになってくる、そこから生まれてくるのが、新しい新鮮な喜び、そういう新鮮な喜びの卵が、次々と産みなされていくなら、神様が疎かになるはずがない。
   おかげ頂かにゃいけません。